ボクの街2011/LUMIX GF1(前編)[増補]
★写真を追加しました。
▲連休最後の今日、僕はカメラを持って11年ぶりに僕の育った街を訪れてみた。それは、枚方の超ローカルなニュースと話題を集めたサイト「枚方つーしん」に掲載された1枚の写真を見たからだ。そう、ここが正に僕の育った街だった。無性に行ってみたくなった。
11年ぶりと書いたように、僕はここを以前、ライカをぶら下げて歩いた。その様子は「ライカでラララ♪」の「ラララ♪写真展」に掲載した。(直リンクは→コチラ)
僕がこの街を離れて、もう30年以上になる。そう、もうそんなになるのだ。今回のこの写真散歩は全くもって僕にしか意味のないもので、他人に見せても退屈なだけのシロモノだけど…。
▲スーパー[サンコー]のところを少し入るとある店[コーヒー・ジェリー]。この名前になったのはいつからだろう? 左側の自動販売機が並んでいるところが、昔はパン屋さんだった。ここはたしか神戸屋パンだったと思う。ここのパターリッチという菓子パンの中で一番安いの(たしか15円だったと思う)が大好きだった。パン屋とご飯屋か喫茶店が兼業の店で、パン屋の方は僕が小学生のうちにやめてしまったが、タバコ屋と喫茶店は続いていた。おつかいで親のタバコはいつもここに買いに来ていた。今でも喫茶店はやっているようだ。
▲サンコーの裏の方に回るとお風呂屋さん[ニューホープ温泉]がある。ここは同級生の家でもある。今でも営業しているようでうれしい。僕は家風呂があったけど、時々ここに来ていたし、小学6年の途中で隣町に引っ越した時は文化住宅で風呂がなく、ここに通っていた。僕が来ていた時にはなかったコインランドリーができている(自動販売機が二つ並んでいるところの間が入口)。今日はおじいさんが洗濯が終わるのを退屈そうに待っていた。
▲ニューホープ温泉の並びでもう少し東側にある、写真中央の[古本 学習院]という店は営業期間はそんなに長くなかったと思う。でもここで何度か本を買ったことがある。その中の一冊、新潮文庫『シャーロック・ホームズの思い出』コナン・ドイル/延原謙譯(昭和三十年八刷)がそうだ。「譯」の字をみても古さがわかるだろう。買った当時でも古い本だった。完全に新仮名遣いになりきっていなくて、少し旧仮名遣いの名残があり、また旧字体も交じっているというもので、その中途半端さからこの本に愛着を感じて今でも持っている。
▲またサンコーの方を向くと緩い上り坂になっている。写真で黄色い庇テントのところ、昔はプラモデル屋さんだった。ここには用もないのによく通ったものだ。ここで零戦やガメラのゼンマイ走行するやつ(どっちも50円プラモ)はいくつ買ったか知れやしない。50円ごとにアトムのハンコをついたサービス券をくれて、それが何枚かたまるとプラモがもらえた。色を塗ってまで仕上げたプラモはひとつもなかったが、上級生が戦艦や戦車のプラモを買うのにあこがれたものだ。店頭に飾ってある店のおにいちゃんが作ったのは塗装もしてあってかっこよかったなぁ。そして店頭に十円玉を入れて自分で巻き取る綿菓子の機械があったのも覚えてる。
▲[インテリア純]はカーテンやクロスのお店で、内装工事もやってたかも。しまったな、月曜はこの辺りは定休日なのかもしれない。営業しているのかもうやめてしまっているのかがわからない。インテリア純は保育園児のころときどきその店先でおっちゃんがソファの貼り替えなどをやっているのを少し離れたところからずーっと見ていたのを覚えている。そうこの店が使っていたクルマはちょっと変わっていた。今ならこういう商売ならトラックとか大きめのワンボックスだろうけど、ここのクルマはセダンで、後ろのトランク部分が蓋がないものだった。一応キャンバスのカバーは取り付けられるようになってはいたが、トラックとセダンのあいの子みたいなクルマだった。
▲向かいの[ディナーハウス瀧]は僕が子どものころは[レストラン瀧]という名前だった。だから同じ人かその子どもさんがやっているんだろう。僕はここの焼き飯が大好きで母と時々食べに来た。焼き飯を頼むと味噌汁が付いてきた。普通は中華スープだと思うのだけどここは味噌汁だった。
▲こちらは表通り。関西医大から荒物屋の[丸天]を南下する商店街の南端ぐらいの付近。最後がスーパー[サンコー]だから少し手前だけど。[マキノカメラ店]は今でもやっているようだ。たしか、我が家カメラのリコー・オートハーフSEはここで買ったものだったと思う。現像・プリントもいつもここに出していた。生まれて初めてコピー機でコピーをしてもらったのもこの店だった。この店の手前は生地屋さんだったかな。奥の方の今マンションになっているところは[和光デンキ]だった。和光のシャッターには松本零士の『光速エスパー』が描かれていた。
マキノカメラ店、生地屋のもう一つ手前は食堂があったと思う。僕が保育園児だったころ、この辺りは大雨で浸水したことがある。僕の住んでいた家はここよりもさらに少し低いので大人の腰ぐらいまで浸かった。家は床下浸水だった。保育園から帰る時間になっても家に帰れないで、ここの食堂で待っているように言われて親の迎えを待っていたことを覚えている。家に帰ると床上までは来てなくて安心したけど、畳みが全部上げられていて不思議な感じがした。
▲ヤクルトとメグミルクのお店は、僕の子どものころは雪印の牛乳屋さんだった。雪印の事件の後、ヤクルトの店になって、メグミルクの店としても復活したのかな。子どものころは牛乳を配達してもらったりしていたが、牛乳だと子どもはあんまり飲まないのだ。で、スノーラックという乳酸菌飲料に変えてもらってそれを飲んでいた。キャンペーン期間中に紙のキャップの裏側にアタリが出るとシールがもらえるというのがあって、アタリのキャップを握りしめてこの店にもらいに行った。夜行くと「そこの机の一番下の引き出しに入ってるから、好きなのを持って帰り」と言われて、自分で選んだ。おっちゃんはろくすっぽこっちを見てないので誤魔化して1枚2枚多くもらって帰ることもできたのだけど、そういうときはなかなかそんなことは思いつかないのだなぁ。
▲観察しながらぐるぐる歩いているので、同じような場所が何度も出てくるのだけど、この写真。そう「枚方つーしん」に掲載された例の写真と同じショットで撮ってみたもの。[カラオケ喫茶 こぶし]は昔は[ボンソワール]というしゃれた名前のバーだった。今でも入口が二つあるが今は使っているのは左側の大きい方だけだろう。右側の黒い扉は2階へ上がる階段になっている。2階はビリヤード場だった。別に僕がここで遊んでいたわけではないが、覗いたことはあった。
▲ボンソワールの右側が少し下り坂の道がある。そこを降りていくと僕の住んでいた家のある通りになる。この坂では小学1年のころ、僕が買ってもらった20吋の子供用自転車に母と二人乗りして遊びにでかけ(僕は後ろ)母はこの坂で僕を振り落として家まで走り去ってしまった。僕は振り落とされ右手に擦り傷を負いながら血をだらだら流して母を追いかけた。母はこう言った。「なんや、急に軽なったな、とは思た」
▲僕の住んでいた通りだ。道の一番奥正面は[天龍]という名前の仕出し屋さんだった。一時期はスナックや屋上ビアガーデンなどもやっていたこともある。でも最終的には仕出し屋さんになっていた。僕が住んでいたのはこの通りの左側の奥で天龍に働きに来ていたおばちゃんにもかわいがってもらっていた。この通りはもうほとんどの家が建て替わっており、僕が住んでいたころの建物で残っているのは1軒ぐらいだと思う。すっかり様子が変わってしまった。もう少し広々とした感じがしていたのだけど、建て替えで敷地の道ぎわギリギリまで建物を出してきているので、なんだかとても窮屈な感じだ。もうほんとど知った人も残っていないようだ。
▲同じ通りを振り返る。こうなると全く見覚えのない風景だ。よくよく見ていけば片鱗は見つけられるのかもしれないが。
▲天龍のドン突きは実は行き止まりではなくL字に南方向へ道が続いている。これはその南方向を見たところ。こちらも僕が住んでいたころの建物はほとんどない。唯一正面に見える車庫だけが昔からある。隣の家は後で建ったもの。
▲さて、このブルーシートがかけられた建築中の家のところが僕が住んでいた家があったところである。半年ぐらい前にはまだ建物は存在した。(11年前の写真と比べてみよう! →11年前の写真)取り壊して新しく建てているのだ。ここが売りに出ていることは知っていた。できることならここを買い戻したいとも思ったが、いろいろ考えてあきらめた。僕は今でも時々ここに戻ってくる夢、ここに住んでいる夢を見る。自分の家というイメージはこの街なのだ。魂はここに戻りたがっている。しかし、もう家はなくなってしまった。取り壊すならその前にもう一度入ってみたかったなぁ。
というわけで、今回は僕の住んでいた街をだらだら歩いた記録の前編。もう帰る場所をなくしてしまった、うずらまんの魂はどこを彷徨うのだろうか。後編に、乞う御期待!
Panasonic LUMIX DMC-GF1
LUMIX G 20mm /F1.7 ASPH.
2chome, Makino-honmachi, Hirakata City, Osaka, JAPAN
19. September 2011
Comments
うずらまんさん、こんにちは。
昔住んでいた所に行ってきはったんですか?
私の住んでるところも下町なので、駄菓子屋さんやパン屋さんがありました。
今はつぶれてしまったのですけど。
ツイストというコッペパンをねじった物と、マイケーキが好きでした。
サンダーバードのプラモとウルトラセブンの乗り物をよく作りました。
あと、ロボタッチかな?
Posted by: YANBO | September 19, 2011 10:06 PM
▼YANBOさん
前編の写真では出てないですが、実はニューホープ温泉の前にパン屋さんがあってここは駄菓子屋さんでもありました。一時期店を閉めてたみたいだけど今日はやってました。子どももようけ来てました。
駄菓子屋として流行っていたのは、後編で出てくる東牧野の府営住宅のところにあった2軒ですが、これは今回は写真を撮りに行ってないんです。11年前にすでに廃業してたし。
そこでは、赤影の仮面やウルトラホーク1号(いずれも軟質プラスチックでできたおもちゃ)を何度も買ったなぁ。ヒーローのブロマイドや当てもん、千本引のあめなど懐かしい思い出です。『マッハGo!Go!Go!』のマッハ号のプラモは奮発して買ったのを覚えているなぁ。駄菓子屋だけどプラモも置いてたんですね。
あ、ロボタッチじゃなくて、ロボダッチでは?
♪イマイのイマイのロボダッチ
でしょ(^ε^)
Posted by: うずらまん | September 19, 2011 10:46 PM
はじめまして。
「ひらつー」からこちらにおじゃましました。
懐かしい写真がいっぱいです。
11年前の写真にでてくる「ボロアパート」の前の公園。
私が幼稚園のころ住んでいた家のうらがその公園でした。
たしか、私の同級生にもニューホープの息子さんがいたような気がします。
年長さんで引っ越して(同じ校区内ですが)しまったので
少ししか記憶に残ってることはないのですが、床下浸水したことは鮮明に覚えています。
今度実家に帰ったら、久しぶりにそのころの写真を見てみたいなと思いました。
Posted by: okies | September 20, 2011 04:25 PM
▼okiesさん、こんにちは。はじめまして。
…というか、初めましてじゃないかもしれないですね。
ニューホープ温泉とこの子が同級生なら僕とも
同級生だった可能性が(^ε^;)
床下浸水を覚えているということは、やっぱりあのとき
あの近くにいたんですね、僕たちは。
あの浸水騒ぎは結局消防署からポンプを借りてくみ出し
ておさまったように記憶しています。
あの公園で遊んでいたのなら、一緒に遊んだことがある
かもしれないですね、ほんとに。
あそこで毎日のように遊んでたし、幼稚園が違っても
適当に声を掛けてみんな遊んでたし。
あの公園のポプラの木にはよく登ってました。今は公園
は道路側が削られてさらに細くなってしまってます。
次回の写真で公園の現在の姿もお見せしますね。
Posted by: うずらまん | September 20, 2011 09:35 PM
ええ記事やな。三年前に 今はもう歩けない母親を連れて、散歩しました。母親がむかしよくいった毛糸屋があるからです
私は自転車でそこのスーパーに、買い物に行きます
はっきり言いましょう 車社会がこの街を衰えさせたのです
Posted by: 若松 | September 25, 2011 02:44 PM
▼若松さん
クルマ社会ですか…。日本中の商店街が元気なくなっているのはそういうことなんでしょうね。
Posted by: うずらまん | September 25, 2011 08:38 PM